烏留の変遷

koukuusyashin1946昭和21年頃

1946年の航空写真(国土地理院HPより引用)
写真の上部で東西に走る道路は、国道18号、その下の蛇行する川は碓氷川です。広谷橋は、ほぼ同じ位置にありますが、木造の橋で低い位置にありました。 現在の県道217号線は、未だ出来ておりません。現在の烏留北区公会堂の前を通る細い道が当時のメインストリートでした。写真中央左よりの黒っぽい部分が 諏訪神社の森です。南側の地区には、まだ人家が殆どありません。公会堂が出来た1962年には、世帯数は67戸でした。生活様式は日本の農村です。

 

koukuusyashin1975昭和50年頃

1975年の航空写真(国土地理院HPより引用)

中央に県道217号線が通ってます。町営の諏訪前団地ができ、諏訪神社の斜め向かいには日豊通信の工場棟が見えます。[豊中通信工業(株)、(株)日立 松井田製作所、(株)日立郡山製作所の三社が合併、社名を日豊通信工業(株)に改称]その後、撤退して跡地はパチンコ屋になってます。
1976年のデータによると、世帯数は87戸、人口は338名、班編成は7班でした。純農村であった烏留地区にも工場や団地など近代化の波が押し寄せてきました。

 

koukuusyashin2014平成27年頃

2014年の航空写真(GoogleMapより引用)
現在の烏留北区と南区。宅地開発が進み、畑が減って殆ど住宅地になりました。町営の東光寺団地、町営分譲地の三日市住宅などで南側の戸数も増えました。 一時期は烏留全体で400世帯以上に増えたため行政区を南北に分割、烏留南区と烏留北区になりました。その後、公営(旧町営)住宅の新規入居受付が無く なったため世帯数は減ってますが、民間分譲地で新規個人住宅は増えています。

 

 

 地 図

烏留地区の地図
県道217号線の北側~碓氷川手前までが烏留北区、県道の南側~線路手前までが烏留南区です。

 

 

 

 

合併の歴史

江戸時代の宿村では、西横野地区には10の村がありました。鳥留村は、明治8年に二軒在家村と合併して二軒在家村になりましたが通称名として残っています。二軒在家村は更に他の村と合併して明治22年に西横野村となりました。
昭和29年に、松井田町、臼井町、坂元町、西横野村、九十九村、細野村の六ヶ町村が合併して碓氷郡松井田町となりました。
その後、平成18年に安中市と対等合併し市の名称は、安中市となりました。
現在の地名は、安中市松井田町二軒在家  行政区は烏留でしたが、戸数が増えたため烏留北区、烏留南区に分割しました。西横野地区運動会、どんど焼き、諏訪神社の祭礼等の行事は南北合同で行っています。

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(図は、松井田町文化会発行の「松井田町地名考」より引用)